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たゆたうさかな

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きれいなさかなを、たったの一晩で死なせてしまったことがある。
きれいなきれいな深海を生きる魚を手に入れた、ある夏の日。

何も知らず、ただの何の変哲もない水槽に閉じ込めた翌朝、わくわくと胸を躍らせながら水槽を覗きにいった。
光がきらきらと反射する四角の中で、きれいなきれいな魚は白い腹を見せてぽっかりと浮いていた。

だからだというわけではないのだけれど。それは自嘲でも、かといって悲嘆でもないのだけれど。
僕は淡水の中を何らかのキセキで生き延びてしまった深海魚なのではないかと思うことがある。


              *

 僕の部屋の僕のベッドの上で我が物顔に寝転がりながら、従姉妹の都が持ち込んだ雑誌を捲っている。頬杖をつきながら指先で適当に捲られているそれは、読んでいるというよりは眺めていると表現する方が正しそうだった。狭い正方形の部屋に、僕以外の誰かがいるというだけで、そこは僕以外を受け入れる世界へと変貌してしまうと僕はいつも思う。それを言うと、都はいつだって馬鹿にしきった表情で僕を笑うのだけど。彼女はいつだって、たった一つ年齢が僕より上だというだけで、僕を見下す。
「これ、あんたに似合いそう」
「僕はスカートはあまり好きじゃない」
 都が微笑して指し示したのは、きつめの視線が印象的な、長い黒髪の持ち主だった。その女性は黒のミニスカートにラメの入った黒タイツに黒いパンプスを装着している。モノトーンで構成された装いは紙面の中で完成された美しさを見せている。だがそれはあくまでも誌面で、着ているのが綺麗なモデルだから、だろう。ベッドの隣に設置されている勉強机用の椅子に腰掛けたまま、僕はちらりとだけ視線を投げた。僕の態度が気に入らなかったのか、都はべったりとチークの入った頬を膨らませる。
「ほんとに明はつまんないなぁ。もうちょっと普通の会話できないわけ?」
「なら来なければいいだろう」
「ほんとムカつく。年下のくせに」
 都の家は僕の家から五十メートルも離れていないところにある。彼女の両親は共働きで夜も家にいないことが昔から多かった。そのせいか都は習慣のように学校が終わると自分の家を素通りして、僕の家に「ただいま」と帰ってくる。そして僕よりもこの家に馴染んだ存在そのままにおやつを食べ、テレビを見、僕の部屋で本を読んで、晩御飯を食べて自分の家へ戻っていくのだ。幼いころだけで終わらず、彼女が高校に進学した今も、変わることなくその一連の日常は繰り返されている。そんな都と僕は何かが決定的に合わないまま、けれどそれに追求するほどの価値も見出せないまま。苛々すると呟きながらも都は僕の隣に当たり前のように存在し続けている。でもそれは、都の所為ではないことを僕は理解していた。
「あ、そうだ。明、あんた知ってる? うちの中学の旧校舎の図書室の話」
「旧校舎?」
 まるで深海のような暗さを思わせる木造の校舎は、すんなりと僕の脳裏に現れた。歩くたびにぎしぎしと軋んだ音を生み出す木目作りの廊下に、開けるのにも工夫がいる古めかしい重い扉。新校舎には持っていかれなかった蔵書は、圧迫感のある深い茶色の背の高い書棚に押し込められている。それは追われるように流行を身に纏い続けることを好む都の口から出てくるには、少し不自然なものに僕には思えた。
「そう、旧校舎」
 にんまりと都の目が細められて、彼女は華奢な指を内緒話の前触れのように唇に押し当てた。
「十五歳の夏の日に、旧校舎の図書室に行くとね、もう一人の自分に会えるんだって」
「馬鹿馬鹿しい」
 何かと思えば、七不思議の類だったらしい。不可思議な現象というものは、おおむね人間の恐怖心によって引き起こされるものだと思っている僕は、あまりその類の話は好きではない。
「なによ、興味ないの? パラレルワールドっていうか、なんかそんな感じなんだって。あの時選ばなかったもうひとつの選択肢、その先にあったかもしれないもう一人の自分」
「仮にもしそれに会えたとして、都はどうするつもりなんだ」
 都はきょとんと間の抜けた顔を垣間見せ、天井の隅にぼんやりと視線をやったあと、俯いて小さく笑った。
「あたしが失敗してきた道を上手く選択し続けてきて、幸せそうなあたしがいたら、そうだなぁ。入れ替わってみたいなぁ」
 はにかむような笑顔はひどく幸福そうで、小さく僕の胸を苛立たせた。都にかけるべき言葉を僕は知らず、都もまた話は終わりだと決めたのか、雑誌をぺらぺらとめくり始めていた。
 もう一人の自分。それは例えば、息苦しく感じて仕方がないこの世界を自由に泳ぐことが出来る「僕」であったりするのだろうか。

              *

 都にあんな話をされたからでは断じてない。僕はそれこそこの中学校に入学したときから、旧校舎の図書室が好きだったのだ。昼休みを幾度となくそこで過ごしてきたけれど、僕はもう一人の僕どころか、誰か僕以外の人が出入りしているところさえ、ほとんど見たことがない。都の話を聞いた後も出入りしていることは、僕の日常なのだから当たり前であるはずなのに、どことなく気恥ずかしさを僕に感じさせた。
なぁんだほら、やっぱりあんたも期待してるんじゃない。きゃらきゃらと笑う都の声が聞こえてきそうで、僕は軽く頭を振って手元の文庫本に集中しようと視線に力をこめた。季節は、夏になろうとしていた。
 旧校舎の図書室は、けして広くはない。新校舎に設置されている日当たりの良い白を貴重とした図書室を思えば殊更だ。壁には大きな窓はいくつ存在しているものの、それの八割は重厚な造りの本棚によって塞がれており、唯一光が差し込むしゃれた天窓は、図書室の西側の一角だけをきらりと照らしている。天窓の真下にあるこれまた古めかしい木目調の六人掛けの長机の右端が、僕の特等席だった。
 そこは僕の息が唯一続く、小さな水槽のようなものだった。その閉塞感漂う僕の隣に音もなく一人の少女が現れたのは、必然だったのだろうか。開いていた文庫本のページが急にかげり、顔を上げる。逆光の中、彼女は立っていた。
「隣、座っても?」
「図書室なんだ。好きなところに座ればいいだろう」
「ありがとう」
 隣の席に腰を降ろした彼女の顔は、ひどく見覚えのあるものだった。ふわと春のように笑ったその表情は、僕にとってはとても違和感を感じるものだったけれど。
「あたしの顔、何か付いてる?」
「……いや」
「そう? ならいいんだけど」
「なんでもない。ただ面白いと思っただけなんだ」
 彼女はすっと笑みを引っ込めて、僕を見た。
「同じ顔のはずなのに、全くの別人に見えるから?」
 ざわと、感じるはずのない生ぬるい風が頬を撫でていったような気がした。彼女はまた何の邪気もなさそうな微笑を浮かべて、ゆるりと唇を動かす。
「あたしはあなただけど、あなたはあたしじゃないわ」
 邪気のなさそうだと思っていた微笑は、急激に毒のように僕の身体を巡り始める。僕と同じ顔、同じ声。なのに何かが決定的に僕と彼女の間では違っていた。幼い、本当に幼いころに一度だけ髪の毛を伸ばしたことがあった。それを切り落として以降、僕の髪はいつだって短かった。彼女の腰近くまで伸びている艶やかな黒は、鮮烈に僕の目を射抜く。
「あたしは、あなたよ」
 それは幸福の呪文のようにも、僕の終わりのようにも、僕には聞こえた。
「僕は、僕だ」
 彼女はただ、微笑んだだけだった。自分は決して間違ってはいないのだと、彼女の全身が伝えていた。きっと彼女は、愛されて愛されて誰からも大切にされて、その誰とも同じ水の中で同じように幸せに泳いでいるのだろうなと。そんな詮無い妄想がふいによぎった。

 その日あった出来事を、都に話そうとは僕は思わなかった。怠惰で日常を僕の隣で繰り返している従姉妹に話すのは簡単な様でいて、ひどく難しい。話すのは共感してもらいたいからだ。でも、僕と都の間にはそれがない。
 都は今日も持ち込んだ雑誌を読みふけっている。都は毎月いろいろな雑誌を購入している。僕にはその違いは良く分からないが、女の子が好む服装の系統によって、数多くの雑誌が刊行されているそうだ。そしてより多くの女の子たちと会話を共有するためには、多くの雑誌から情報を吸収しないといけないらしい。
「今度ね、クラスの親睦会があるの」
 僕のベッドはもはや都の特等席になっている。長々と寝そべる彼女の周りには都の携帯電話やコスメポーチ、都自身が持ち込んだお菓子までが散らばっている。食べかすを零すなよと思ったが、指摘するのは面倒だった。
「良かったじゃないか、都も行くんだろう」
「当たり前じゃない! 私服で会うのは始めての子達ばかりだから、何を着ようかなって。最近はそればっかり考えてるの」
「そうか」
 都は大量に衣服を持っている。毎年毎年、その年の流行に見合ったものを買い直すから増える一方なのだ。都のおばさんが以前呆れたように笑っていたのを僕は覚えている。
「ねぇ、明。あんた今度の日曜日もどうせ暇でしょ?」
「なぜ」
「付いてきてよ、その集まりにね、彼氏連れて行ってもいいらしくて。みんな連れて行くんだって。あんただったら問題ないじゃない」
 都は媚びるようにへらりと口角を吊り上げた。そうすれば僕が断ることなどあるわけがないと思っているのだろうか。
「ねぇ、昔からやってくれてたじゃない。あたしの彼氏役。あんただって、みんなからちやほやされたら悪い気しないでしょう?」
 小学校中学年ぐらいの頃だっただろうか、都と僕が連れ立って歩いていたとき、都の同級生に、僕は都のボーイフレンドだと思われたらしい。次の日教室に入った都は、あれは誰なのと今までほとんど話したことがなかったクラスメイトからも声をかけられて有頂天になったようだった。それ以来僕は、都にとって「つまらない従姉妹」の他にもうひとつ称号を与えられたのだ。
「もうそろそろ、限界があるんじゃないか」
「大丈夫よ、半袖じゃなくて長袖のティーシャツを着たらいいわ。服のコーディネートもあたしがしてあげる。あんたはただあたしの隣に立ってくれていたらいいの」
「僕のことを知っている人は?」
「あたしの高校、同じ中学の人誰もいないもの。大丈夫よ。それにあんた身長も高いから問題ないわ、まだまだ大丈夫」
 まだまだ、お役ご免にしてはくれないらしい。僕は小さく息を吐いて了承を都に伝えた。百七十に迫ろうとしている長身を恨めばいいのか誇るべきなのか。とかく都は満面の笑顔を浮かべて、勉強机に向かい文庫本を広げていた僕の手を取った。
「明が、ほんとに男の子だったら良かったのにな」
 きれいなマニュキアに彩られた華奢な指先が、何の飾り気もない僕の指先に絡みつく。それをそっと振りほどくと、都はあからさまに顔をしかめた。
「なによ」
「読書の邪魔をするぐらいなら、帰ってくれ」
 淡々と告げた事実に、都は呆然とした後、ヒステリックにつまらないやつと吐き捨てた。持ち込んでいた雑誌をこれまたベッドに置いていた学生鞄に詰め込み、きらきらと装飾のなされた携帯電話も放り込む。代わりに手鏡より少し大きいサイズの鏡を取り出して、大して崩れてもいないメイクに手直しを加え始めた。もう外も暗いし家までは一、二分の距離であるにも関らず、都は神経質に顔に手を加え続けている。この部屋を出る前に都が行なう儀式のひとつだ。
「とにかく。日曜日の朝十時に迎えに来るから、いい? 忘れないでよね」
 僕を振り返ることもなく、鏡の中に映る都自身を見つめたまま、都は言った。その言葉は、どこか重苦しく僕の中へと落ちていった。

            *

「振り回されるのは、あなたが弱いからだわ」
「僕は、きみに何も言っていないが」
 当たり前のように僕の隣の席に腰掛けると早々、彼女は僕に告げた。外は雨が降っている。僕と彼女以外に誰も存在しない隔離された水槽は雨音が良く響く。さぁっと静かに、途絶えることなく続く音はいつだって僕の心を落ちつかせた。都は七月の雨を湿気が多いから、嫌いだと言う。髪の毛がまとまらないから、と。
「言わなくたって分かるわよ、あなたはあたしなんだから」
 さらさらと流れる黒髪は一寸のうねりもなくまっすぐ伸びきっている。もし都の髪の毛が彼女の髪の毛のようになんの歪みもなくまっすぐであったのなら、都は雨が好きだと笑っていたのだろうか。
「馬鹿馬鹿しいな」
「信じるのが怖いから?」
「いや、そうだな。どうでもいい」
 好戦的な台詞も、告げた相手の瞳さえ見なければ、結構どうとでもよくなるものだ。少なくとも、僕にとっては。異世界だと思えばいいのだ。そうすればどうとでもよくなるに違いないのに。他人に向けられる視線も中傷も、好意も敵意も。でもそれが出来ないのが都の都たる所以で、だからこそあんなにいつも必死で淡水に馴染もうとしているのだろう。そんな都を、僕はひっそりと蔑んでいる。

「うん、かっこいい。すごくいいよ、明」
 最後の仕上げとばかりに都は、漢書が用意した服を着込んだ僕の髪の毛にワックスを揉みこんだ。そして満足そうに何度も頭のてっぺんから足元まで僕の全身をうんうんと眺めて、にんまりと笑う。都自身、いつもの彼女以上に気を張った服装をしていることは一目で分かった。校則違反の茶色い髪の毛をコテで巻きつけ、夏を感じさせる明るい花柄のキャミソールワンピース。白いカーディガンをふんわりと羽織って、小さなかごバックを持っている。そのすべてが、今日のために用意されたものであることもまた一目瞭然だった。
 まだ集合時間までは一時間以上もあるのに、都は何度もそわそわと時計を確認していた。僕の家から集合場所の河原までは十分もあれば着いてしまう。今日はバーベキューをするらしい。
「ねぇ、やっぱりもう行こうよ。遅くに行って、もうグループが出来上がっていたら話しかけにくくなるじゃない」
「こんな時間、まだ誰も着ていないんじゃないのか」
「そんなことないって。もう早くに来て準備してる人たちだっていると思うし……」
 一度言い出したことは、都は退かない。それは僕に対してだけではあるのだけれど。生まれた頃からの付き合いだ。お互いの性格はある程度分かってしまっている。だからどうすれば一番楽なのかも分かっている。だから僕は、たいていのことで都に逆らわない。好きに行動したらいいのだ。その先に導き出されるだろう結果が、たとえどんなものだとしても。
 
 集合時間よりも三十分早く河原に到着すれば、確かに五、六人の男女が既にビニールシートを広げたり、機材を運んだりしていた。河原に降り立つ前から、都はもじもじと言葉を探していたけれど、案の定彼らの半径二メートルぐらいまで近づいても、言葉をかけることが出来ずにいる。面倒くさくなって僕は空を見上げた。きれいな夏の青空だった。準備を取り仕切っている風情だった明るい茶髪の少女が、僕たちの登場に気が付いたのか、首にかけていたタオルで汗をぬぐいながら僕たちを見た。健康的なサンダルにジーパンにTシャツ。ヒールの高いおろしたてのミュールを履いて、河原の細かな石に脚を取られそうに幾度もなっていた都とはどこまでも対照的だった。
「あ、高岡さん! おはようっ」
「お……っ、おはようっ」
「こんなに早く来なくてもよかったのに。始まるまでどこかでぶらぶらしてくれててもいいよ」
「あ、あたしも何か手伝うよ」
「いいって。そんな格好じゃ、準備なんてできないでしょ? 友達とおしゃべりでもしてたら?」
 義務は果たしたとばかりに、少女は準備を進める仲間の方へと戻っていく。都は小さい子どものようにワンピースの裾をぎゅっと握り締めていて。どれほどの力をこめているのか指先は真っ白になっていた。
「……あんたの所為なんだからね! もっと早く、準備が始まるより先に来れてたら、あの輪に入っていけたんだからっ」
「それは悪かった」
「ほんとよっ、いつもならもっと友達もいるし、おしゃべりだって出来るんだから」
「悪かった」
 ふてくされた顔をしていた都は、同級生がいることを思い出したのか、僕を見上げてとりなすように小さく笑う。本当は、もっと気の利いたことを僕に言ってほしいのだろうと分かってる。けれどそこまでの譲歩を僕がする謂れは無いように思えた。
「ごめん。きっと始まったら楽しいと思うから、明も楽しんで」
 そんなはずないだろう。分かっているのかいないのか、都はいつも、一筋の可能性を信じ、縋る。僕はそんな都を見るのはあまり好きではなかった。結局バーベキューが始まっても、都に話しかける人は誰もいなかった。
                *

 美味しいはずの青空の下で食べる肉を、とてもまずいもののようにもそもそと咀嚼していた都の横顔を思い出して、僕は憂鬱な心持になる。昼休み前の最後の授業の英語で、隣の席だというだけで僕とペアを組まされたおとなしそうな少女は、いかにも気詰まりそうにそわそわと視線を彷徨わせていた。
 指定されたページを音読しあったら、残りは自由時間だ。周りのペアは取り留めもないことをたらたらと喋っている。この子には会話がないのが気づまりなのだろうと分かったが、僕は自分から提供すべきものを持っていない。ふっと視線が合うと少女は困りきった弱弱しい愛想笑いを浮かべてきた。それは否応なしに従姉妹の顔を連想させる。僕はさして興味のない教科書に視線を落として彼女から意識を逸らせた。視界の端で行き場のない彼女の指先がスカートのひだを無意味に伸ばしているのが見えた。
 嫌われているわけではない、と思う。何を考えているか分からないとは思われているだろう。そして何を話しかければいいのか分からないと気難しくとらえられているのだろう。学校が嫌いなわけじゃない、人が嫌いなわけじゃない。ただ昔から、人が普通だというものが、学校が当たり前だと告げることが良く分からなかった。それは小さく小さく積もり重なり、いつの間にか僕の前には薄ぼんやりした膜がかかっているように思えてきた。
 時々、ふと苦しいと思う。当たり前に笑っている彼女たちがうらやましいように思う。けれど、仕方がないのだ。決定的に僕と彼女たちは違うのだから。少女は結局、授業終了の鐘が鳴るまでただじっと僕の隣に座り続けていた。僕は何も言わなかった。沈黙は、決して苦痛ではない。僕に通じない言葉で湧き上がる笑い声も、嫌いではない。ただひどく、時折息が苦しくなった。自分に合った水が欲しかった。

「それはわがままよ」
 そして残酷だわ。もはや何の違和感もなくなってしまいそうなほど当たり前に彼女は僕の隣に座り、長い黒髪を指先で弄んでいる。
何も僕が言わないにも関らず、僕の心情を読んだように彼女自身の正義をぶつけてくるのも今更だった。それに僕が何も言い返さないのも。
「僕は、きみの言うことはよくわからない」
「認めたくないことはそうやって逃げるのね」
 ふふと彼女は笑う。挑発を受け流すのなんて、それこそ今更だった。
「都は逃げない。あなたはそれを無様だと言う。でも、じゃあ、何もしないで望んでだけいるあなたは何なのかしらね」
「君は、僕とは違うだろう」
「そうね、でもあたしはあなたを知ってるの」
「僕は、謎掛けもあまり好きじゃない」
「それは導き出される答えを恐れているからよ」
「きみは、僕の何を知っているというんだ」
 流し損ねた苛立ちは、僕の声を重くした。けれど彼女はそんなことはさもちっぽけなことだといなして微笑む。それがひどく癪に障った。
「きみはいつ消えるんだ」
 彼女は瞳から笑みの温度を消し去った。それは彼女が本音に触れる前触れだと、このときの僕はもう全身で理解していて、勝手に心臓がざわめいた。
「あなたが、あたしになったらね」
 妖艶な大人の微笑を浮かべた彼女を素通りして、僕の脳裏に蘇ったのは都のはにかむような笑顔だった。そうだなぁ、すべての選択を上手にこなしたあたしがいたら、入れ替わりたいなぁ。そうしたらあたしは幸せかなぁ。胸が空っぽになったように痛んだ。それこそ偽善だ。そんなもの何者でもない。彼女が素晴らしく、僕が失敗作だとでも言いたいのだろうか。愛されたものの傲慢だと思う。こういったことを口にすると、母さんは十五年しか生きていない癖にと苦笑いを浮かべるけれど。
「それでもあたしは、あなたよりあなたを知ってるわ」
 慈愛のような柔らかな瞳を僕に向けた彼女に、初めてぞっとした感覚が背筋を駆け抜けた。

 彼女は僕の内側にするりと入り込もうとしてくる。それはひどくゆっくりと、けれど確実に侵食してくる止まることを知らない水の流れのようだった。僕の世界は僕だけが存在していて、僕はそれだけが望だったはずだった。
「あんたはいつだってそうよ。あたしのことなんて馬鹿にして、どうでもいいんでしょ!」
 なんの話の流れからだったのかも覚えてはいない。ヒステリックに叫んで都は大事にしている雑誌を壁に向かって投げつけた。どうせ後で拾うのは都なのになと思う。何も言わずにただ都を見つめる僕に、都は何もかもが気に入らない子どものように足を踏み鳴らした。正確に言えば僕は都から意識して焦点をずらして彼女を見ていたのだけれど。そうしないと僕は都の激情に押し流されてしまいそうだったのだ、いつだって。
「そうやって必死で周りに縋ろうとしているあたしを馬鹿だって、どうせ好かれるわけなんてないのにって、そう思ってるんでしょ!」
 都の作り物めいたマスカラに縁取られた瞳からは、黒い涙がぽたぽたと溢れ、熱く塗り重ねられたチークに痕をつけていた。何時間かけてメイクしているのか知らない。ただ都は朝の五時におきるのだという話を聞いたことがあった。そうして何度もファンデーションを塗り、マスカラを付け、チークを塗り、それを何回繰り返してもまだ駄目だと思うのだと言う。だから、都の顔はいつだって、誰もが近づくの躊躇するほどに作り物めいていて、奇妙だった。
「もういい!」
 荒々しくドアを閉めて、都は出て行った。都が居なくなった部屋はやっと僕だけの世界になって、呼吸が少し楽になった気がした。
 都と僕は、幼いころいつも一緒にいた。狭い水槽の中に飼われた、その世界がすべてだと信じ込んでいる金魚の番のように。何をするのも一緒で、面白いと思うことも同じなら、悲しむものも同じだった。なのに、都は飛び出した。
 本当に幼いころだ。たぶん、都が小学校に上がってしばらく経ったころだったと思う。僕の母に連れられて都と三人でデパートに行ったときのことだ。母の買い物が終るまで、僕たちはいつもペットショップの熱帯魚のコーナーを占領し続けていた。きらきらきらきら泳ぐ魚たちはきれいで、僕は胸が躍ったし、たぶん都もそうだった。水槽の中を悠々と泳ぐアルタムエンゼルを見て、都はポツリと寂しくないのかなぁと呟いた。
「なんで? 楽しそうに泳いでるよ」
「だって、こんな狭い世界しか知らないんだよ。友達だって一匹しかいないじゃない」
 僕にはそれが分からなくて、ただひどくショックだったのを覚えてる。今まで、ずっと同じ価値観を共有し続けてきたはずの都が、僕には分からないことを考えているということが。それが、一番初めに感じた都の異質さで、都は僕と同じものじゃなくなってしまったのだと、ぽっかりとしたものに覆われてしまったようだった。そんな都が許せなくて、悲しくて都の頭を叩いたら、驚いた顔をした都に泣かないでと言われたような気がする。でも僕の涙は止まらなくて、結局都も釣られたのか二人で大泣きしてしまって、母に困られたのだった。「本当にあんたたちはしょうがないわねぇ」なんて、どこか理解できないものを見るような、それでいて慈悲に溢れたまなざしで。
 都はいつだって、広い世界に恋をしていたように思う。自分が決して交われないものに、それでも縋りつき、恋焦がれているのだ。だから都はいつだって泣きそうな顔をしている。

 いつか、認めなければならない。見つめないといけない道があるとして、それはどこに続いているんだろう。どこにあるというんだろう。
僕はこのままでいいと願う。このままがいいと祈る。都はあるかもしれない未来にひたすらに縋り付く。本当は、都の方が強いのだということをきっと、僕も知っていた。
 それでも、どうしたって、僕は――。それより先を考えるのはひどく億劫だった。そうして僕は旧校舎の図書室へと足を向けるのをぱったりと止めた。



「それでもきっと、いつか大人にならざるを得ないわ」
 夢の中でいつか見た「僕」が微笑む。分かってる、分かっている。そんなの当たり前じゃないか。人間は時を止められない。そうしてまた人間は進化する生き物なのだ。古代海にいた生物が地上を求めて肺呼吸を始めたように。だとしたら、僕は。
傲慢に自分だけが水に合わないのだと思うのはひどく楽だった。そうであれば、それは僕の所為ではなく、環境が悪いというただそれだけなのだから。なのに、都は飛び出した。
――ばかばかしい、これは嫉妬だとでもいうのか。
図書室の亡霊は、なぜ僕のところに現れたのだろう。思考しなければならないと思うのに、僕の中の何かがそれを拒絶する。考えることを放棄して、もう少しだけこの水槽の中に居たかった。
いつかは大人になる。分かっている。でもそのいつかまでは、まだ。そうして僕は、頑ななまま、まだ揺蕩い続けている。



 水槽の中で二匹のアダムエンゼルが泳いでいる。尾ひれがふわりと舞った。二人きりの世界はかたくなに守られていたはずだった。
「寂しくないのかなぁ」
「寂しくないよ、だってずっと二人なんだよ」
 僕はそこに居たかった。ずっとずっとそこに居たかった。都が笑う。笑っているくせに泣きそうだった。苦しそうだった。
「だったらいいなぁ」
 それは夢物語だと知ってしまったお伽話の結末を歌う声に似ていた。




<2013/05/18 23:12 柚木>消しゴム
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